原宿・穏田の歴史
 穏田という地名、なんとなく秋の日に暮れ行く日差しを浴びた、ひっそりとした水田のたたずまいを感じさせて、私は大好きです。残念ながら原宿という地名と同じように住居表示上はなくなってしまった地名ではありますが、よくよく周りをみると江戸時代からの面影が残ってもいるのです。先にも書きましたが、池波正太郎さんの小説の中にも、千駄ヶ谷、目黒あたりとともに穏田のようすが記述されているところもあります。大山街道(現在の青山通り、国道246)が青山から渋谷にかけて丘の上を通る右手に、なだらかに下り、下に流れる渋谷川をこえたあたりまでの西側斜面が穏田です。 まあ地元の方々にしか興味はないかもしれませんが、神宮前、かっては原宿・穏田についてポツポツのせていきます。
穏田の名称の由来と歴史
 小田原北条氏の家臣恩田氏の居住地とか関東管領・上杉定正の臣、恩田五郎右衛門の隠棲の地であったとか、さらには田制のカクシ田にちなむなど諸説ある。天正19年、大縄地7か村の1つとして伊賀者に給与された。江戸時代、文化文政の頃には、家数38軒、用水を四谷上水から分水して利用。村の中央を渋谷川が流れ、干ばつにも枯れないと伝えられる紫の井という涌水があった。鎮守は大六天社、他に妙円寺開山日光の勧請した熊野社、寛永元年勧進の稲荷社、毘沙門堂、地蔵堂がある。

【近代】
 明治5年東京府に所属。同年の戸数63。人口232人。同11年からは南豊島郡に所属。明治期の終わりには、田園地帯から急速に市街化した。
【近世】
 豊島郡麻布領のうち。昭和7年、豊多摩郡千駄ヶ谷村大字穏田字赤羽根・前田が穏田1丁目、字穏田が穏田2丁目、字源氏山・大原が穏田3丁目となって成立。 昭和40年3月1日住居表示実施により神宮前となり、現在に至る。
(角川書店:角川日本地名大辞典)
穏田の水車
 古くから穏田村にあった水車は、忠左衛門が開業したものがただ一つ である。従って「隠田の水車」はこの水車かと思われる。ただし、穏原橋際にあった水車(のちの「村越水車」)である可能性も存する。 「水車渡世名前書」によると忠左衛門の水車は、明和六(1769)年頃の開業と思われる。所有者は忠左衛門→埜中歓了→泉藤吉→鶴田平吉(鶴田の水車)へと移り、営業も米搗き→綿糸→米搗き→伸べがね業へと変遷した。
 明治十八年現在 (泉藤吉所有)の杵数は四十六本あり水輪は直径十尺(約 3b)、幅四尺(約1.2b)もあった。雇い人は男十四人、年間稼働数量は9200石・六百円(明治二十一年現在)あり、この数量から見ても相当規模の水車であったことがわかる。
(渋谷区史料集第四/参考資料より)

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